シベリアの風

創業者 本間紋司

本間鋼業株式会社
初代社長 本間 紋司

新潟県燕市の鍛冶屋、本間製作所を営む本間林蔵の五人兄弟の末っ子に生まれた私は、三条商業を卒業した18歳の春、大阪の金属雑貨を中心とする貿易商・北村宗兵衛商店に入社した。貿易会社とはいえ、最初は船場から大阪築港の船着き場まで毎日6キロ、二人で荷車を引いて商品を運搬する重労働であった。しかし、人間の骨格ができあがるときに全身を使う重労働に耐えたことは幸運だった。のちに酷寒のシベリアでの抑留生活に耐えられたのは、このとき鍛えた体力のお陰だと思う。

3年たった昭和14年(1939年)、応召して朝鮮の平壌部隊に入隊した。昭和18年(1943年)秋に一旦除隊をして帰国したが、半年後の昭和19年(1944年)に再び応召し、南満州の牡丹江で終戦を迎える。おきまりの捕虜、シベリア送りで、北西部のタイセットという第二シベリア鉄道の建設基地に着いた。

日本軍捕虜はきちんと一団千人ずつに分けられ、ラーゲル(収容所)に入れられる。気温零下40度くらいまでは朝暗いうちから宿舎の外に出て点呼をうける。55度以下になると瞼の水分が凍って目がくっついてしまい、作業ができないので中止。しかし作業中に風が吹くと60度からひどい時は90度まで気温が下がっている。いつも瞼をこすっていないと目がくっついてしまう。

最初の1年で1000人のうち600人が栄養失調で死んだ。朝起きると必ず1、2人は死んでいた。欠員が出ると必ずどこからか補充者が来て千人単位が維持される。

作業は鉄道建設だ。タイセットを基点として西へ6キロごとに駅が作られたが、私の隊は最終には125キロ駅まで進んだ。シベリアの土壌は砂漠だ。発破で表面の土を吹き飛ばすと、下はすばらしい砂地だ。その砂を掘り、一輪手押し車で約2メートルの高さに盛りあげ、表面を均せば路盤は出来上がり。冬がきて凍結すれば万年路盤に早がわり。森林を伐採して作った枕木を並べるだけで金属杭を打たなくてもよい。レールを連結していれば鉄道の完成である。

復員したのは昭和25年(1950年)1月。飢えと寒さで僚友が死んでいく地獄の底で、4年半生き続けた体験は何物にも換えがたい貴重なもので、どんな苦しみにも耐えられる精神力と、最後は開き直る根性を代償として与えられた。病気らしい病気をしないのも、シベリアの風で鍛えられたせいだと思う。

帰国してしばらくは、燕の兄の洋食器生産のため素材徴達の仕事に従事。東京・浅草吉野町に家を持ち、新潟の間を往復したが、昭和31年(1956年)4月に現在地で独立した。他人より10年も遅れた。

才子型の人間でないから、ただコツコツ、嘘をつかず、得意先を騙すな、自分の能力の枠内でやれと枠にもいい聞かせながら、立川筋に400坪の工場を持ち、ステンレス、表面処理鋼板、アルミを三本柱に、切り曲げした半製品を医療器、エクステリア、製缶などの業者に500軒に販売している。
(※ 文章、表現は、当時のまま)

本間鋼業の歴史を振り返る

若き日の創業社長と、二代目社長

本間鋼業株式会社
二代目社長 本間 一径
(現 取締役会長)

私は東京都台東区今戸に弊社創業者である本間紋司とその妻・志津の長男として昭和29年(1954年)に生を受けました。戦後まもなく貧しさが渦を巻いて身近にあった時期で、生まれ育った地域は山谷地区に程近く、自転車泥棒やコソ泥がちょくちょく出没するような界隈でした。

当時から電気上下水道はあったもののテレビ・冷蔵庫・自家用車など所有している家庭など勿論なく、近所の子供たちと公園で真っ暗になるまで縄跳び、フラフープ、ベイゴマ等で遊びまわっていたこと、よく覚えています。

父は昭和24年(1949年)、約4年のシベリア抑留の後、新潟県燕市にあった実の兄が代表を務める洋食器製造会社(本間製作所)に入社、そして入社から3年経った昭和27年(1952年)に、母と一緒に上京し、本間製作所の東京営業所として独立します。

当時は鍋窯の材料となるステンレス・アルミは本格的な国内生産のない時代、どこへ行っても資材を集めることは容易ではなく、東京でスクラップや占領軍(米軍)が放出した非鉄金属をかき集めては、新潟の家業へ送っていたそうです。

私が生まれた昭和29年(1954年)には、伸びつつあったステンレス需要を商機と捉えステンレス鋼材販売を開始、昭和31年(1956年)には法人化し、現在の「本間鋼業株式会社」が産声を上げました。

創業したての黎明期はまだトラックもない時代ですから、リヤカーでステンレススクラップを収集し、自ら選別・仕分けし小口に販売していたそうです。

私が一番最初に車に乗った記憶は父の運転するマツダのオート三輪です。幼少のころから配達の時ついて来いと言われ、横に座り左折の際は左手を窓の外に出していた記憶が今もあります。

父も母も自宅兼事務所兼倉庫工場で朝から夜遅くまでよく働いていました。父が工場管理から、伝票作業・見積作業まですべて一人でこなし、母も家事をこなしながら丸棒を切る等現場を手伝い手はボロボロ、ほぼ休まず働く毎日で、機械を動かした時の油臭さと丸棒を切る音は私にとって生活の一部でした。

生活と仕事が混然一体な環境で両親に育てられましたので、自分も大きくなったら鉄を担ぐんだ、父の跡を継ぐんだと自然に思っていました。また、下町で育った周りの友達も社会に出たら親の家業を長男が承継するのは当然でした。

その後昭和37年(1962年)、東京都台東区今戸から、墨田区亀沢に引っ越してきました。この亀沢周辺はもともと本所という地区でここもまた鉄や繊維の集まる商工業地帯で特に本所割下水通り(現在の北斎通り)と言われた幅の広い道には鉄屋が軒を連ね、鉄の秋葉原と言われるほど、東京で随一の鉄の現物を扱う店が集まっていました。

私の家はお粗末ながら独身寮があり、当時新潟から出てきた社員との共同生活は当たり前で、母が賄いの食事を早朝から仕込み、朝6時には社員を食べさせ、私と家族は7時頃から食べ始めるのが日常でした。ですので、社員と経営者はまさしく同じ釜を食う仲間でもありそのころから社員も家族同様と思う気持ちが育まれていったと思います。少し古いのかもしれませんが、私の社員に対するこの想いは今も変わりなく続いています。

私自身は、大学卒業後に3年間の他社修行を経て、昭和54年(1979年)に当社に入社しました。入社したての頃は、ステンレス需要が右肩上がりの時代でしたので、ともかく毎日が忙しく、父が当時新鋭の加工設備の導入を進めていたこともあり会社の業績も順調でした。 然しながら、全て一人でこなす父には社員を育て養成するといった発想もない為、社員には指示待ちの人間が多く、私は多少なりとも他社での経験や社外研修・セミナーで学んだ知識をもっていたので、現場と理想の乖離はなはだしく、父とは度々ぶつかることがありました。

創業者の会社に対する発想とは、まず自分のために作った会社で全ては自分のためにあるべきであり、すべてが自分のものであり、いわゆる「竈の灰まで俺のもの」の世界のように私には思えました。

然しながら父の死後、父のもとで長年働いて下さった社員から、父を慕う言葉を聞く機会が多々あり、私の父も会社は全て自分のものであるという気持ちだけでなかったと、後になって知りました。言葉こそ荒く直線的な物言いしか出来ない父は度々勘違いされ敵も多くいましたが、やはり社員や会社に対する想いは人一倍だったとその時感じました。

私も、創業者同様、本間鋼業を、社員と喜怒哀楽を共有しながら相互尊重し会社も個人も共に成長してく会社にしたいと思っています。社員が自分の可愛い子どもを自分が働く本間鋼業に入社させたい、そう思ってくださる会社にしたいと強く想っております。

会社概要

社名 本間鋼業株式会社
設立 昭和31年(1956年)4月4日 【創業 昭和27年(1952年)】
代表者 代表取締役 本間 超
資本金 1,000万円
従業員数 50名(2025年末現在)
本社所在地 〒130‐0023 東京都墨田区立川2-12-8
事業所 経理部・営業管理部(東京都墨田区)/営業部・加工センター・配送センター(千葉県浦安市)
事業内容 ステンレス材の切断・折り曲げ加工品の製造販売及び鋼材販売
主要仕入先 アラヤ特殊金属株式会社
伊藤忠丸紅鉄鋼株式会社
株式会社サステック
ナス物産株式会社
MSSステンレスセンター株式会社
板 類 日本製鉄株式会社
日本冶金工業株式会社
型・棒類 愛知製鋼株式会社・大同特殊鋼株式会社
鋼 管 類 新家工業株式会社・日鉄ステンレス鋼管株式会社
モリ工業株式会社
取引銀行 三菱UFJ銀行 上野支店 浅草営業部
みずほ銀行 本所支店
りそな銀行 錦糸町支店
商工中金 押上支店
加盟団体 東京ステンレス流通協会
東京鉄鋼販売連合(本所鐵交会加盟)
浦安鐵鋼団地協同組合

組織・アクセス

東京本社

東京都墨田区立川2-12-8
Tel:03-3635-6500 Fax:03-3635-2217

浦安加工センター


浦安加工センター 
千葉県浦安市港41
Tel:047-355-1231 Fax:047-355-1232



配送センター

配送センター
千葉県浦安市港6
Tel:047-355-3048 Fax:047-355-3047

会社沿革

昭和27年(1952年)  創業者本間紋司
台東区浅草今戸にて個人で鋼材問屋を開始
昭和31年(1956年) 4月 法人化資本金50万
三菱銀行・雷門支店取引開始(現 三菱UFJ銀行)
昭和32年(1957年) 9月 東京ステンレス問屋組合加入
(現 東京ステンレス流通協会)
昭和37年(1962年) 台東区浅草より墨田区亀沢町へ移転
昭和40年(1965年) 7月 立川倉庫(2-13-3)②③建物建設
昭和43年(1965年) 1月 立川新工場・立川現場食堂①建物建設
昭和44年(1969年)  3月 資本金2,000千円増資
昭和47年(1972年) 1月 立川 ④建屋建築3月 資本金2,000千円増資
4月 坂下会計事務所顧問依頼
8月 ㈱アマダシャーリング CR2000導入
昭和49年(1974年) 10月 資本金4,000千円へ増資
アマダシャーリングH4013型導入
昭和50年(1975年) 12月 本所鐵交会・向上会・
東京鉄鋼販売業連合会加入
昭和52年(1977年) 3月 ㈱アマダ4M400t
ベンダーRG400導入
昭和53年(1978年) 5月 立川底地東京都より払い下げ受け購入
6月 ㈱アマダ油圧ベンダーNC-9RG200T3M導入
11月 亀沢倉庫工場設置認可 
アマダHA-400バンドソー設置
昭和54年(1979年) 3月 緑2丁目(緑倉庫)東京都より
底地払い下げ受け購入
7月 立川2-12-7(立川2-1-7)底地購入
8月 東鉄連浦安団地協同組合加入
(現 浦安鐵鋼団地協同組合)
東京商工会議所加入
9月 ㈱アマダベンダーR400L(6M400t)導入
12月 千葉県港41 浦安鐵鋼団地用地(2,954㎡)取得
昭和55年(1980年) 1月 神崎鉄工製 ベンデングロール設置
11月 ㈱冨田鉄工所3M厚板キャップシャー導入
12月 都有地払下げ立川2-7-6購入
昭和57年(1982年) 7月 立川2-12-8底地購入
昭和58年(1983年) 2月 社員親睦会発足
12月 ㈱アマダプレスブレーキRG4004M400t導入
立川営業棟新築(立川2-12-8)
昭和59年(1984年) 1月 益子製作所 ビニール貼布機設置
4月 亀沢本社より立川に営業部移転(立川2-12-8)
9月 富田式ベンデングロール3M設置
12月 プラズマ搭載型溶断機更新
立川工場増設(会議室)
昭和61年(1986年) 9月 浦安工場新築完成 (坂田建設)
12月 青柳製作所 NC付6Mプレーナー導入
昭和62年(1987年) 1月 ㈱アマダ油圧ベンダー4MFBD400t導入
㈱アマダメカニカルシャーリングマシンM-6045導入
4月 立川プラズマを浦安工場へ移転
浦安工場完成披露
昭和63年(1988年) 8月 三菱電機6M大型レザー導入
12月 富田鉄工4M油圧式シヤー導入
平成 元年(1989年) 1月 ㈱アマダメカニカルデジカットシャーDCT2545型導入
平成2年(1990年) 2月 資本金8,000千円へ増資
11月 ㈱アマダプレスブレーキRG400(NC9ーF)導入
平成3年(1991年) 1月 資本金10,000千円へ増資
6月 ㈱アマダ・デジカットシャーリングD2565ーDRC導入
9月 アマダバンドソー設置
平成4年(1992年) 3月 ㈱アマダタレットパンチプレス5´×10´サイズ導入
7月 千葉県長柄町山之郷(10,093㎡工場用地取得)
平成6年(1994年) 6月 浦安工場増築工事 従業員休憩室・食堂
8月 ベンダー浦安工場へ移転 ベンダー部員浦安配転
RG400L(6M)・RG400・RG203・FBD4004
平成8年(1996年) 2月 ㈱アマダレーザーマシンLC1212A Ⅱ型導入
平成10年(1998年) 1月 本間紋司が取締役会長に
本間一径が代表取締役に就任
平成11年(1999年) 2月 春日製ラム型フライス盤設置
3月 森精機製旋盤設置
平成12年(2000年) 6月 営業部・浦安コンピュータ設置(全社オンライン化)
平成16年(2004年) 7月 東京三菱銀行保証付私募債発行
平成18年(2006年) 10月 アマダレーザーマシンLC2415
(5´×10´サイズ 4KW)導入
平成19年(2007年) 3月 ㈱アマダシャーリングDCT2565N(2.5MMax 3t用)入
5月 みずほ銀行保証付私募債発行
平成20年(2008年) 3月 千葉県浦安港6 土地2,911㎡ 建物1,705.47㎡ 購入
6月 浦安市港6 配送センター 開設
㈱アマダ製 小型型鋼 バンドソーマシンHK400
㈱アマダ製 横型鋸盤 バンドソーマシンPCS AW330
平成21年(2009年) 3月 ㈱アマダ製 AP100自動プログラミング装置
平成22年(2010年) 1月 営業部 浦安移転
平成25年(2013年) 2月 ㈱アマダ製油圧式ベンダーHG2204導入
平成27年(2015年) 11月 ㈱アマダ製油圧式ベンダーHG1704導入
平成28年(2016年) 9月 アマダ製 CO2レーザー FOM 4222NT 4KW導入
平成 30年(2018年) 1月 アマダ製 シャーリング  DCT 3065 導入
平成 31年(2019年) 1月 アマダ製 ファイバーレーザー ENSIS 4020AJ 3KW 導入
令和2年(2020年) 
  • 1月 アマダ製 ベンダーHG8025 導入
1月 アマダ製 ベンダーHD3506 導入
令和4年(2022年) 7月 弊社ホームページリニューアル(NCネットワーク)
令和5年(2023年) 9月 アマダ製 ベンダーRG-50S 導入
10月 MIYAi製 MR-S550(4本ロール) 導入
12月 浦安加工センター3階部分 リニューアル工事
令和6年(2024年) 2月 富士機工製 バリ取り機 導入
2月 紀和製 ボール盤 導入
3月 浦安加工センター1~2階CAD/受付 リニューアル工事
6月 浦安加工センター3階男子トイレ リフォーム工事
7月 浦安加工センター2階女子トイレ リフォーム工事
8月 創立70周年記念事業
令和7年(2025年) 5月 浦安加工センター1階男子トイレ リフォーム工事
6月 富士機工製 NC位置決め装置
令和8年(2026年) 1月 本間一径が取締役会長に、本間超が代表取締役に就任
若き日の創業者・本間紋司
旧本社があった本所割下水通り(昭和30年代)
旧本社(現在の東京都墨田区亀沢町)
二代目社長 本間一径(現 取締役会長)
TOPに戻る